時代小説

『花埋み』 渡辺淳一

本書は、日本の医師国家試験に合格した女医第1号である荻野ぎんの半生を描いている。
シーボルトの娘・楠本いね子が、女医の第1号として挙げられることがあるが、それは正しくない。ぎんより28歳年上のいね子は、明治3年に築地で産科を開業したが、その頃はまだ国家資格ではなかったので、極端なことを言えば、誰でも医者を名乗ることができた時代である。
なお、本書の「解説」を書いている吉村昭は著書『ふぉん・しほるとの娘』で、楠本いね子の生涯を描いている。

花埋み (新潮文庫)
渡辺 淳一
新潮文庫 1975年

ぎんは現在の埼玉県の旧家に生まれ、16歳で結婚したが、夫に淋疾をうつされた。順天堂病院で治療を受け、男性医師に局所の診察を受けることに著しい嫌悪を感じた。ぎんは女たちに同様の屈辱を味わいさせたくないとの思いで、女医を志した。
東京女子師範学校に入学したぎんは、それ以降、吟子と名乗るようになり、明治12年、第1期生として首席で卒業した。
医学を学ぶため、私塾の好寿院に入学した。男たちは吟子に執拗な嫌がらせをした。そんなイジメにもめげず、好寿院を優秀な成績で卒業した。
吟子は医術開業試験に合格し女医第1号となった。そして湯島に産婦人科荻野医院を開業し、大いに繁盛した。

やがてキリスト教に入信し社会運動に身を投じるようになった。
39歳のときに、周りの反対を押し切って13歳年下の男性と結婚した。夫はキリスト教徒の理想郷を作るという志のもとに北海道に渡り、数年後、吟子は後を追った。
夫婦で壮絶な苦労を強いられたにもかかわらず、夫は志半ばで病死した。吟子は札幌で開業しようとするが、吟子の習得した医術はすでに時代遅れのものになっていた。
失意のまま帰郷し、62歳で他界した。

吟子は札幌での開業をかつて医学を学んだとき助教師をしていた人物に相談する。すると「最近は、男の医師だからといって産婦人科の診察を拒む人などまずいません。女医である利点は少なくなっています」という。吟子が医者を目指した理由が、なんの意味をもたなくなったという衝撃的な答えが返ってきたのだ。

吟子は開業して3か月もすると、医者の限界を感じるようになったと著者は書いている。女医になったことで吟子の志は達成され、人生の目標を失ったのではないだろうか。それが猛反対を押し切っての結婚、名声を捨てての北海道行きにつながったのだろう。→人気ブログランキング

『北斎まんだら』 梶よう子

ややっこしい存在の北斎ゆえに起こる騒動を、娘のお栄や、北斎に弟子入りしようとする高井三九郎や、浮世絵師で戯作者の渓斎英泉こと善次郎たちを通して描く。
本作のキーワードは「偽北斎」。贋作と代筆がテーマである。

信州小布施の高井三九郎が浅草の北斎の家を訪ねると、応対したのはお栄であった。高井家の惣領息子の三九郎が北斎に弟子入りしたいと申し出ると、北斎はお栄に「お前がみてやれ」と命じた。お栄は「やなこった」と答えた。
三九郎が三和土に散らばった反故を手に取ると、それは、お栄が描いた枕絵だった。
この頃、絵師は名前を変えて、ご禁制の枕絵を描き小金を稼ぐのが当り前だった。

北斎まんだら
北斎まんだら
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梶 よう子
講談社  2017年2月

かつて北斎家に居候していた善次郎は、美人画を書かせたら当代随一といわれ、アクの強い作風で知られていた。好色本や生々しい出来の枕絵を世に送り出していた善次郎は、北斎の家にちょくちょく顔を出す。

小布施で高井家といえば、奉公人が100余名もいる豪商なのに、その惣領息子の三九郎に、お栄は枕絵の陰毛の描き方を講釈するのだった。
北斎の代筆をするお栄に三九郎は疑問をもつ。
それにしても北斎、お栄、それとお調子者で騒々しい善次郎、とんでもない人物たちと出会ってしまったと、三九郎は思った。

枕絵と錦絵の鍾馗像の偽物が北斎作として出回っていることを、お栄たちは知る。
善次郎が贋作の犯人を突き止めようとしていると、北斎の孫・重太郎が江戸に戻ってきていることを知った。

後半は、北斎の孫・重太郎が中心となってストーリーは進む。
重太郎は北斎の長女、お栄の姉の息子。子供の頃から親に反抗し、悪い仲間と付き合って、悪事を重ねた。尻拭いために北斎が金を出していた。
悪事がばれて説教されると、泣いて謝るのだが、口先だけで、ほとぼりが冷めると悪事を繰り返した。
ついには勘当され奥州に追いやられていたが、最近、江戸に舞い戻ってきたという噂だ。
善次郎もお栄も北斎も、偽物には重太郎が絡んでいると睨んでいた。→人気ブログランキング

【絵師が主人公の歴史小説】
北斎まんだら』梶よう子 2017年
眩(くらら)』朝井まかて 2016年
『ごんたくれ』西條加奈 2015年
ヨイ豊』梶よう子 2015年
若冲』澤田 瞳子 2015年
北斎と応為』キャサリン・ゴヴィエ/2014年
フェルメールになれなかった男』フランク・ウイン 2014年
東京新大橋雨中図』杉本章子 1988年

『東京新大橋雨中図』 杉本章子

明治初期の激しく移り変わる世に、『東京新大橋雨中図』や『猫と提灯』などの名作を描き、最後の木版浮世絵師と称される小林清親の半生を描いた、杉本章子の時代小説である。直木賞(第100回、昭和63年度下半期) 受賞。
清親は、身の丈六尺のいかつい顔をした偉丈夫だったという。

Book

東京新大橋雨中図

杉本章子
文春文庫
1991年 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎




御家人であった清親は、明治時代の到来とともに職を失い、住み慣れた江戸をあとにし、幕臣たちとともに駿府に移った。財政が逼迫する静岡藩に定職があるはずもなく、清親は3年で東京に戻ってきた。
浮世絵や錦絵の版元屋の2階に居を構えた清親が、暇に飽かせて描いた絵が、有力な版元の大黒屋の目に止まり、一本立ちの浮世絵師を目指しての修行がはじまった。この時、清親29歳、絵の修行をはじめるには遅すぎる歳だった。
自ら「画鬼」と名のる天才絵師・河鍋暁斎の口利きで、写真家・下岡蓮杖の弟子・桑山が経営する写真館で色つけの修行をはじめ、めきめきと腕を上げていった。

そんな折、桑山から極秘で色つけを頼まれた写真の女性は、音信不通となっていた兄・虎造の妻・佐江であった。病に臥す虎造から、共同事業を持ちかけられた相棒に騙され借金を背負ったと聞かされる。清親は虎造の借金を返そうと、金を工面して佐江に渡すのだった。

Photo

自ら光線画と名付けた『東京新大橋雨中図』は、爆発的に売れた。雨の降る中を蛇の目傘をさした後ろ姿の女は、清親が淡い思慕の念を抱いた佐江を描いたものだった。
こうして光線画は脚光を浴び、清親は「明治の広重」と呼ばれるようになる。また、洋画の手法をとりいれた『猫と提灯』を、第1回内国勧業博覧会博覧会(明治10年)に出品し、好評を博した。
月岡芳年の弟子だという井上安治郎が、清親に弟子入りを願い出た。安治郎は「血まみれ芳年」の激しい画風についていけず、光線画に憧れているという。

やがて、光線画の人気も下火になり、西南戦争の錦絵や大久保利通と西郷隆盛の似顔絵などの、商業ベースの注文に応えざるを得なくなる。
さらに、版元から火事場に出向き臨場感あふれる絵を描くよう求められるようになった。この時、身重の妻と幼い娘を家において、火事の現場に出向いたことが原因となり、妻は実家に帰ってしまった。夫婦の関係は修復されず、ついには、清親が娘をひきとり離縁となった。

「火事場の絵なんぞ書く暇があったら、『猫と提灯』のようなこれぞという上質の絵を描くことだと言ったろう」という暁斎の言葉が、清親は気にかかって仕方がなかった。そうは言っても、背に腹を変えられぬ清親は新聞や雑誌のポンチ絵(風刺画)を描くようになる。

そんなある日、足をくじいて歩けなくなった老女を背負って家まで送り届けたことが縁で、清元の師匠・延世志(のぶよし)と親密な仲になるのだが、清親はひとり娘をかかえ、延世志は老いた母をかかえる上に3人の子持ちであった。

【絵師が主人公の歴史小説】
東京新大橋雨中図』杉本章子 1988年
眩(くらら)』朝井まかて 2016年
『ごんたくれ』西條加奈 2015年
ヨイ豊』梶よう子 2015年
若冲』澤田 瞳子/2015年
北斎と応為』キャサリン・ゴヴィエ/2014年
フェルメールになれなかった男』フランク・ウイン/2014年

『阿蘭陀西鶴』朝井まかて

井原西鶴(1642〜93年)を盲目の娘おあいを通して描いている。
おあいが9歳の時、母親が25歳で亡くなった。
通夜での、西鶴の周章狼狽ぶり、おあいの落ち着きぶりが対象的に描かれている。
母親はおあいに生活する上での術を徹底的に仕込んだ。とくに料理は、近所の誰もがその腕を褒めるほどである。そんなわけで料理の描写が多い。

俳諧師である西鶴は、初七日の法要の席で千句を詠んだ。これを『独吟一日千句』として出板(出版)したのだった。その後、矢数俳諧は西鶴の得意とするところになり、四千句、一万とエスカレートしていった。果ては、大坂に芭蕉の弟子・其角が立ち寄った際に、住吉神社の神前で其角を後見に向かえ、大矢数俳諧を興行し、二万三千五百句を詠んだ。
もちろん、そのほとんどが駄句だった。

阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)
阿蘭陀西鶴
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朝井 まかて
講談社文庫
2016年11月

「阿蘭陀(おらんだ)」と名のる西鶴は、とにかく人の前を歩きたい目立ちたがり屋。阿蘭陀とは毎年御公儀に拝謁する長崎から江戸に向う異国の者のこと。異端を意味した。
西鶴は、大坂の談林派を代表する俳諧師であると自負していたが、評価されないことに不満を抱いていた。俳諧仲間からは、「西鶴は己の宣伝が過ぎる。目立ちたがり屋にも程がある」と非難されていた。

西鶴は、江戸の深川に居を移した松尾芭蕉(1644〜94年)の噂を聞いてから、様子が変わる。
談林派の宗匠が亡くなり、宗匠を目指していた西鶴は、突然、おあいを連れて淡路島に旅だったのだ。淡路島に逗留している間に書き上げた『好色一代男』を出板すると、大評判となり大いに売れた。江戸では浮世絵の創始者となる菱川師宣(1618〜94年)が挿絵を描いた。
その後、『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』のヒットを飛ばす大エンターテーメント作家となるが、家計はいつも火の車だった。
当時の作家の収入は最初の原稿料だけで、いくら増刷されても作家には支払われないシステムだった。浮世作家だけでは食べていけない西鶴は、句会の点者として稼いでいた。

そんな西鶴を芭蕉は激烈に批判したのである。
<見当はずれなことを言い散らして、句の良し悪しをちゃんと判じておらぬ。西鶴は俳諧をまるでわかっていない。阿蘭陀西鶴、浅ましく下れり>と。
それを耳にした西鶴は、阿蘭陀西鶴らしい啖呵を切る。
〈わしが浅ましゅうなったやとぅ。阿保か。この阿蘭陀西鶴、名乗りを上げたその日から、さもしゅうて下劣な輩やと自ら触れてあるわい。突くんはそこか。違うやろ。せっかく町人の、俗の楽しみになってたもんをわざわざ難しゅうして、皆が手ぇの届かん俳風に祀り上げてんのは己やないかい。ああ、ああ、なるほど、おまはんは清いわ、尊いわ。言葉に凝りに凝って磨きをかけて、これが芭蕉の句でござい、はっ、それがなんちゅうねん。小っちゃい言葉の端切れにこだわって、理詰めにあれこれ判じて。それが一体、何になる。凝り性の澄ましやがっ。〉

西鶴は利発なおあいを世間に自慢したくてしょうがなかったが、おあいは拒否した。おあいは長ずるにつれ、西鶴を誤解していたことに気づき、次第に受け入れるようになっていく。父娘の愛情物語でもある。

阿蘭陀西鶴/講談社文庫/2016年
胘(くらら)/新潮社/2016年

『室町無頼』垣根涼介

室町時代中期、応仁の乱が起こる前、頻発する飢饉と室町幕府の失政により、人々の生活はどん底に落ち不満は極限に達していた。
世直しの土一揆を企み着々と準備を進める蓮田兵衛、その先頭に立って戦わねばならない兵法者の才蔵、一揆を制圧する側の骨皮道賢、比叡山を後ろ盾に金貸しとしてやりたい放題の法妙坊暁信。
これらの人物に、高級娼婦の芳王子(ほおうじ)が絡む。
蓮田兵衛、骨皮道賢は実在の人物。

室町無頼
室町無頼
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垣根 涼介
新潮社
2016年8月 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

15歳で浪人の父親を亡くした才蔵は、独学で棒術を身につけ、強盗を叩きのめしたこともあった。17歳のときに、比叡山の僧兵を束ねる法妙坊暁信に土蔵の用心棒として雇われた。才蔵は生まれてはじめて、他人に期待される立場にいることに自信を持ち、また戸惑いを覚えた。土倉とは銭貸し業のこと。

ある日、土倉が襲われ、 用心棒のうち最後まで盗賊と闘った才蔵はとらわれの身となった。盗賊の首謀者は骨皮道賢。配下に浮浪人やならず者300人を集める頭目である。幕府は道賢に京の警護を任せていた。警察でありながら強盗も働く道賢は、乱世ゆえにまかり通る存在である。

暁信は才蔵を族の一味と疑い探していた。
道賢は才蔵を蓮田兵衛に預けることにした。預ける理由は、土倉襲撃が道賢の仕業と法妙坊にバレないことと、才蔵は腕は立つが足軽稼業には向かないこと。
兵衛はその才蔵を唐崎の老人に預けた。そこで9か月間、文字通り命をかけた修行をこなし、老人から先端に三角錐の金具がついた六尺棒を授けられた才蔵は、逞しい武芸サイボーグとなって兵衛の元に帰ってきた。

兵衛の屋敷には、多彩な人物たちが寝泊まりし、金も払わずに食事をしていく。兵衛は、いざという時のために、そうした人々の話を聞き情報を集め、心を掌握しているのだった。こうして、兵衛は着々と土一揆の準備を進めていく。
一揆が起これば、道賢や法妙坊暁信は制圧する側に回らなければならず、誰も生き残る見込みはない。

そして、一揆の蜂起に向かってストーリーは進んでいく。
長く生きてもいいことなどあろうはずもない乱世に、無謀な戦いに挑む「無頼」な男たちの、痛快なピカレスク・ロマンである。

『秋萩の散る』澤田瞳子

著者が得意とする奈良時代を舞台とした珠玉の5話。時代を彷彿とさせる漢語の使い方が巧みで、いずれも長編に匹敵する読み応えがある。

「凱風の島」
6度目の日本渡来に挑む鑑真を乗せて4艘の帆船は、沖縄に到着した。鑑真招聘は日本(ひのもと)の大願であるが、遣唐大使・藤原清河は、玄宗皇帝の許可なく鑑真を乗せた副使・大伴古麻呂に、批判的であった。一方、唐に30年間滞在し唐で大出世した阿倍仲麻呂は、齢55歳になる。帰国しても仕官はかなわないだろう。 清河も仲麻呂も帰国後厚遇されることはないだろう。親の七光りで遣唐使となり、たった1年で帰国する藤原刷雄(よしお)は複雑な思いにかられた。

秋萩の散る (文芸書)
秋萩の散る
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澤田 瞳子
徳間書店
2016年10月

「南海の桃李」
南海の200ある島々に、漂流船に場所を知らせる目的で石碑を建てる。
吉備真備は同じ船で唐より戻った高橋牛養に、そのアイデアをもちかけた。牛養は碑を建てるべく、太宰府に赴任した。碑には、島の名、島内の水場、港の場所、大島や薩摩までの距離、が示されているはずであった。しかし、島にたどり着いた真備は碑がないことに愕然とする。牛養が碑を建てなかった理由はなにか?

「夏芒の庭」
大学寮に在学して4年目の上信(うわしな)は落ちこぼれ。日向の秀才雄依(おより)と同室となる。上信や雄依たちは権力闘争の死闘を目の当たりにする。学生たちのある者は巻き込まれ、またある者は世の不条理を学ぶのだった。

「梅の一枝」
文筆にたけた石上朝臣宅嗣(やかつぐ)は、宮中で「文人乃首(文人の筆頭)」の名をほしいままにしていた。そんな宅嗣の前に安倍女帝(孝謙天皇)の異母弟であるという久世王が現れ、母親は宅嗣の従姉であるという。久世王の存在を気性の激しい孝謙天皇に知られたら命を狙われ、自分にも類が及ぶやもしれないと宅嗣は不安にかられる。なにか手を打とうとするが。。

「秋萩の散る」
安倍女帝の寵愛により比肩する者のいない高職についた道鏡の晩年を描く。権力をほしいままに帝位にまで昇り詰めようとしたとされる道鏡であるが、女帝の崩御後、下野国薬師寺に配流された。道鏡は臆病な老僧として描かれる。

秋萩の散る/徳間書店/2016年
師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間書店/2015年
ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間文庫/2016年
京都はんなり暮らし/徳間文庫/2015年
与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記/光文社/2015年
若冲/文藝春秋/2015年
満つる月の如し 仏師・定朝/徳間文庫/2014年
泣くな道真 ―太宰府の詩―/集英社文庫/2014年

『ジャーニー・ボーイ』高橋克彦

ヴィクトリア朝時代(1837年~1901年)に活躍した英国の紀行作家イザベラ・バード(1831年~1904年)の著書『日本奥地紀行』をもとに、物語が作られている。主人公はバードに随行した通訳の伊藤鶴吉である。

明治11年(1878年)5月14日、内務卿大久保利通が不平士族に暗殺される(紀尾井町の変)という、未だ攘夷の気運がくすぶる不安定な国情の頃、バードは伊藤を従え、東京からから日光、日光から会津坂下を通り津川へ抜けて新潟まで行く。
『日本奥地紀行』ではそのあと北上し北海道に渡るが、本書では新潟までが描かれている。
あえて描かれる冒頭の「紀尾井町の変」の惨状は、攘夷派残党のバード襲撃がありうることを暗示している。

ジャーニー・ボーイ (朝日文庫)
ジャーニー・ボーイ
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高橋克彦
朝日文庫 2016年10月

大倉喜八郎と東京日日新聞主筆の岸田吟香、外務省の役人が、寿司屋の2階で伊藤を吟味する。伊藤は、上野にある政府御用達の西洋料理屋・精養軒の外国人担当という設定。小柄だが腕っ節が滅法強く、その昔ピストル・ボーイというあだ名がついていた。

日本政府としては、表向きは護衛なしで女性の一人旅ができる安全な国を、世界にアピールしたいところ。役人は、バードは50近いばあさんだから、ろくに歩けもしないだろうとたかをくくっていた。実際は47歳だった。

そんな政府の思惑とは裏腹に、世界各地への冒険旅行で頑強な体になっていたバードは、能天気そのもの。旅の目的は、東京や横浜などの洋風にかぶれた都市を見ることではなく、日本の原風景を体験し、それをもとに旅行記を書くことだという。

バードの話し相手は伊藤に限られている。
伊藤はバードに訊ねた。「ろくな食べ物もない、宿は蚤だらけで、見るべき史跡もない、きつい道で痩せた馬にゆられ尻が痛くなる。こういう旅を本当に楽しいと思うのか?」
「楽しいわよ。誰も見たことのない景色を私が一番最初に眺めるんですもの」と、バードは答えた。
ふたりの間には異文化のせめぎ合いの火花が散ることもたびたびある。
それは主に、男女同権の兆しが見えはじめた国の女性と、男尊女卑の風潮が色濃く残る国の男性との意見の対立であった。

日光の金谷邸に1週間逗留したバードは、厚遇され、この上なく満足した。
会津には、攘夷派の士族だった警察官が大勢いる。会津坂下から津川に抜ける箇所が、もっとも危険である。津川にたどり着けば、あとは新潟まで阿賀野川の舟下りだからなんとかなる。
さて、刺客や警察官たちの不穏な影がちらつくなか、バードと伊藤は無事に津川にたどり着けるのだろうか?

『ふぉん・しいほるとの娘』上 吉村 昭

江戸後期から幕末・明治に至る時代を背景に、シーボルトとお滝(公的な妾)、その子孫たち、そして関わった人々を描いた大作である。上巻はシーボルトとお滝を中心に物語が展開し、下巻ではふたりの間に産まれたお稲とその娘タダ(高子)を中心に語られる。詳細な資料を元にする著者の実証主義がつらぬかれている。
本作は吉川英治文学賞(第13回 1979年)を受賞した。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮文庫
1993年年3月

1823年8月、オランダ商館付きの医官として長崎に着いたフランツ・フォン・シーボルトはドイツ人であり、オランダ語は日本人の通使より下手だったという。
シーボルトはオランダ政府から日本の国情調査を依頼されていた。つまりスパイの役割を担っていた。
シーボルトは、蘭方医の学習所兼診療所・鳴滝塾を開設する(1824年)。塾には、西洋の医学を吸収したいという日本の意欲あふれる医家たちが詰めかけ活況を呈した。
シーボルトは、門弟たちに惜しみなく医学を教え、日本の情勢をオランダ語で書かせレポートとして提出させた。優秀作品には賞を与えた。門弟たちにスパイ行為をさせていたことになる。

1825年(文政8年)2月、相次ぐ異国船の出没に、幕府は異国船掃攘令を発した。
4年に1回行われた商館長(カピタン)の江戸参府の旅に、シーボルトも同行した(1826年) 。
シーボルトは江戸に着くまで、各地で測量を行い植物を採取した。シーボルトの行く先々で、学者たちや大名たちがシーボルトに会いに宿舎に来訪した。
江戸では、シーボルトはさまざまな人物に会い、日本地図をはじめ数々の国禁の資料を手に入れた。

17歳の滝は「オランダ行き」と呼ばれるオランダ人向けの遊女で、27歳のシーボルトの妾になった。やがてお稲が生まれる(1827年)。
お稲が生まれて1年2ヶ月を経た頃、シーボルトは帰国の準備を始めた。
収集した1000種に及ぶ植物や日本地図を含めた膨大な資料を、オランダ船に乗せ長崎から持ち出そうとしたが、九州地方を襲った大暴風雨によって、シーボルトが帰国に使う船が坐洲してしまった。
これはシーボルトに疑いの目を向けていた幕府にとって好都合なことだった。

幕府の下知状が早飛脚によって長崎幕府にもたらされた。
シーボルトの所持している日本地図、蝦夷地図をはじめとする国禁の品々を取り戻し、シーボルト及び禁制の品々の譲渡に関係した者たちの取り調べを行うようにとの内容であった。
江戸では幕府の天文方・高橋作左衛門をはじめ、シーボルトに日本国の国禁の資料をわたした嫌疑で、シーボルトに接した人物が次々に捕まり、重罪となった(シーボルト事件1828年)。
したたかなシーボルトは、幕府の厳しい詮議をなんとかかわし、長崎を去ったのは、1829年12月であった。お稲は2歳半であった。

お滝は遊女の籍から解放され、関問屋俵屋の時次郎と結婚した。情が厚い時次郎はお稲を引き取った。お稲は寺子屋で評判になるほど聡明であった。
1840年、13歳のお稲は、お滝の反対を押し切って、シーボルトの弟子であった宇和島藩領卯之町で医業を営む蘭方医・二宮敬作に師事するために旅立った。
この時、お稲は混血児である自分は普通の結婚生活はできないと、悟っていた。

『露の玉垣』乙川優三郎

頻繁に水害に見舞われる越後の小藩・新発田藩が舞台。
藩は水害や飢饉による財政難に喘ぎ、藩主も武士も農民も経済的に逼迫した状況から逃れられない。
実在の人物であった溝口半兵衛(1756〜1819)は、新発田藩の正史『御記録』を編纂し終えた後、藩士たちの家系譜の編纂にとりかかった。家系譜『露の玉垣』の誕生までには20有余年がかかった。
著者はこの生きた史料をもとに、彼らの魂に忠実な物語を書こうと思ったという。

露の玉垣 (新潮文庫)
露の玉垣
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乙川 優三郎
新潮文庫  2010年7月

「乙路 」 天明6年(1786)
外様の小藩・新発田藩が直面している問題は水害と財政難だった。
31歳の溝口半兵衛は、いきなり家老役組頭を仰せつかった。
半兵衛は、勘定奉行の板倉平次郎とともに借金の普請に近郷の豪農に向かう途中、家臣の譜を編むことを告げた。
「新しい命」寛文8年(1668)
岡四郎右衛門のお役目は掛蔵地区の細工所預かり。周囲から吝嗇と嫌われているのではないかと思うようになった。
そんな四郎右衛門の家から出火し、本丸まで焼けた。切腹を覚悟したが、所払いの沙汰で済んだ。夫婦の出立にあたり、思ってもみない多くの人から声をかけられ、餞別も受けた。
「きのう玉蔭」宝永3年(1706)
代官になった遠藤吉右衛門は、足軽長屋から中曽根に越して来て、ここなら野菜をたっぷり作れると喜んだ。吉右衛門は、下僕だった頃、新造の橘(きつ)に想いを寄せていた。すでに結婚をし7歳の息子がいる吉右衛門は、庭で野菜を作って親しい人におすそ分けをすることが楽しみであった。離縁された橘が病気で臥していると知った吉右衛門は、野菜を担いで見舞いに出かけていった。
「晩秋」享保15年(1730)
清左衛門は、53歳で元〆役を御役御免となった。かつては用人として家老を罷免するという役目を果たしたこともあった。清左衛門は余生の生き方を模索する。
「静かな川」元文元年(1736)
加治川の土手が決壊したが藩には金がない。二人の奉行の内密の話に佐治右衛門も同席せよという。佐治右衛門が感じたことは、贅肉をそぎ落とした二人の奉行の生き様だった。
「異人の家」寛保元年(1741)
茫洋として捉えどころのない元中老の男・山庄小左衛門は有能な半面・恐ろしく薄情で気短な異人として知られていた。
「宿敵」宝暦11年(1761)
夫の弟が自分の弟を切り殺したと、年は聞いた。実弟の横死と義弟の断罪に心が揺れる。その事件の根底には逃れられない貧困があった。
「遠い松原」寛政元年(1789)
家臣の譜を編みはじめて4年になる。
水損は5万石を超えた。5万石の藩で5万石を失えばどうなるか。水難に完膚なきまでにやられても前に進むしかない。半兵衛は家系譜『露の玉垣』の編纂を遂行した。→人気ブログランキング

『ふたり女房』京都鷹ヶ峰御薬園目録 澤田瞳子

豊富な知識に裏付けされた緻密な設定で、移り変わる京都の四季のなかに物語が展開される。溢れでんばかりのアカデミズムが魅力だ。
京都鷹ヶ峰御薬園目録シリーズの第一弾。

ふたり女房: 京都鷹ヶ峰御薬園日録 (徳間時代小説文庫)
澤田 瞳子
徳間文庫 2016年1月

主人公・真葛(まくず)の母方の祖父・従四位下左兵衛佐・棚倉静晟(しずあきら)は、娘の倫子(のりこ)と南山城の農家の出身である医師・玄巳(げんい)との仲を激怒し、娘を義絶した。
夫婦が水入らずの暮らしを始め、娘の真葛を授かり3年がたったときだった。玄巳が何日か留守をしたさいに、倫子が流行風邪をこじらせて、あっけなく亡くなった。
玄巳は、3歳の真葛を鷹ヶ峰御薬園の名医・藤林信太夫に預け、勉学の目的で長崎に向かい行方知れずとなった。
真葛が5歳のときに、信太夫が書をしたため、それまでの経緯を棚倉家に伝えたが、静晟からの回答はなかった。その代わり、年に1度米1俵と味噌1樽の真葛の食い扶持を、一方的に届けてくるようになった。

「人待ちの冬」
成田屋は先代が亡くなり娘婿に代わってから、すこぶる評判が悪い。
成田屋の奉公人お雪からの便りは絶えたまま。棚倉に仕える平馬は、真葛に、お雪が人に会わない理由を探ってくれるようにと願い出る。
「春愁悲仏」
患者は、真葛の煎じる薬が効かないと、仏像を削って薬として病人に与える坊主・忍円に頼っているという。
「為朝さま御宿」
匡のひとり息子・辰之助が、疱瘡に罹った。三条西家の次男実季の疱瘡は重篤である。辰之助の容態は山越えたが、実季は亡くなった。そして、実季の乳母が姿を消した。
「ふたり女房」
浪人の広之進は、江戸で狼藉者に絡まれていた男を助けたのが縁で、男の娘である強烈な気性の汐路の婿になった。新発田藩京詰めのお役目となったが、京には夫の帰りを待ち光穏寺で病気療養をする妻がいた。光穏寺の様子を伺う不審者が出没していた。
「初雪の坂」
氷室屋のご隠居が薬草園の薬を飲んで殺された。
薬を渡したのは安養寺の住職・範円。範円に毒芹を渡したのは年長の孤児•小吉だった。
「粥杖(かゆづえ)打ち」
禁裏の粥杖打ちの行事で、粥杖で伏見宮様に尻を 叩かれたお竹が妊娠したという。
書肆・佐野屋の娘・お竹は、医者になりたくて産医の賀川満定にその旨を願い出ていたが、満定は断っていた。いったい父親は誰なのか?お竹は産むという。

師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間書店/2015年
ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間文庫/2016年
京都はんなり暮らし/徳間文庫/2015年
与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記/光文社/2015年
若冲/文藝春秋/2015年
満つる月の如し 仏師・定朝/徳間文庫/2014年
泣くな道真 ―太宰府の詩―/集英社文庫/2014年