歴史小説

2022年10月23日 (日)

『燃えよ剣 下』司馬遼太郎

七里剣之介は歳三殺しを引き受けると伊東甲子太郎にいう。伊東は歳三を殺せば、近藤勇を勤王派にしてみせるという。
飲み屋で歳三と七里は出くわし、二条河原で一対一の決闘をすることになった。
七里は歳三に斬られるが、助っ人が歳三に襲いかかった。そこに飲み屋の親父から 通報を得た沖田総士が馬で駆けつけ歳三を助けた。
伊東は脱退し薩摩藩と手を結んだ。組員は動揺しさらに脱退者が出た。送別の日、斎藤一は脱退者を斬った。

Photo_20221023115801『燃えよ剣 下』
司馬遼太郎
新潮文庫 
1972年 553頁

新選組は幕臣に取り立てられた。
歳三は江戸に隊員を募りに戻った。歳三が江戸で隊員の募集を行っているうちに、大政奉還(1867年慶応3年11月10日)が行われた。
近藤は政治家になりすぎた。一界の武人に過ぎない近藤が分不相応の名誉と地位を得て、政治と思想に首をつっこんだ。近藤の滑稽さはそこにあったという。

新選組は壬生から伏見に陣を移した。近藤が伏見の陣から二条城に出向いたとき、待ち伏せにあい、馬上で肩を撃たれた。幕府御典医・松本良順が、近藤と結核の沖田総士の治療にあたった。伏見に新選組は引っ越す。なぜか松本良順は新撰組と深い関わりがある。
鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争になった。戦いが終わると、慶喜(将軍)と容保(会津中将)は大坂城の裏口から逃げた。

新選組ほか幕府軍は富士山丸に乗って江戸に舞い戻った。新選組43名は品川で降りて、釜谷という旅籠に泊まった。

鳥羽・伏見の戦い以降、それまで中立を保っていた諸侯は、薩長を代表とする時流の流れに乗ってほとんどが官軍になった。紀州、尾州、水戸の御三家はおろか、親藩、さらに譜代筆頭の井伊家さえ官軍になった。

甲府勤番支配佐藤駿河守が近藤勇に、官軍にとられる前に甲府百石をを奪還すれば50万石を当てるという。ところが兵は200人しか集まらない。甲府に入って兵を募れば何とかなると、近藤は言う。

しかし駿府に走った歳三の要請に援軍が得られず、江戸に舞い戻った。
そして下総流山に行く、そこで近藤勇は官軍の本陣に行って、新選組は錦の御旗にはむかわないと釈明するというう。「馬鹿か」と歳三は言う。
近藤のその決意は変わらなかった。そして近藤は官軍に捕縛され板橋で斬首の刑にあった。
沖田はその1ヶ月後千駄木の植木屋の離れで息を引きとった。
そして慶喜は江戸城を明け渡した(1868年3月〜4月)。
歳三は伝習隊を率いて新選組に合流した大鳥圭介が気に食わない。流山から宇都宮城を攻めた。仙台へ向かうが、伊達は歓迎していない。

榎本武揚と大鳥圭介、歳三は幕艦開陽丸で函館に向かっている。
維新政府の大官になった旧幕臣の中で、新選組を情熱的に愛したのは初代軍医総監の松本良順、次いで榎本武揚である。
船を寄せて敵の船に接近し舷側をくっつけて乗り移り、軍艦を丸ごと乗っ取るという海賊の発想は歳三にとって突拍子もない戦術ではなかった。榎本武揚はそのような状況を想像するだにできなかった。
本書には小姓市村鉄之助について記述があるが、『一刀斎夢録』にも、最後まで生き残った若い隊士として描かれている。

1868年(明治元年)10月20日、歳三たちは北海道松前の鷲ノ木に上陸した。上陸後10日で函館を占領した。函館郊外にある五稜郭に本営をおいた。松前城を攻略し、そこにいた松前藩主の正室が身重でいた。歳三は斎藤一と松本捨助に正室を江戸までお供するように命じた。
北海道全域を支配下においた歳三たちは榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国を樹立させた。
しかし、既に旧幕艦隊は主力艦を失っていた。一方官軍は最新鋭の装甲艦を購入していた。歳三は天賦の才能で寡兵をもって官軍を押しとどめ続けた。しかし官軍の援軍部隊が次第に増え、ついには函館と五稜郭の防衛に徹することとなった。
歳三はもはや敗戦は避けられないと悟り、己の最期を戦い抜いて死ぬことに決めた。長引けば捕縛され生きながらえることになる。新選組として戦い亡くなった同志たちに顔向けができない。歳三は新選組の残党とともに突喊攻撃を仕掛けるも、寡兵の不利を覆すことはできなかった。覚悟を決めた歳三は参謀府に斬り込みをかけるが、官軍の一斉射撃を浴びた。→人気ブログランキング
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燃えよ剣 上 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年
燃えよ剣 下 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年

2022年7月 9日 (土)

『燃えよ剣 上』司馬遼太郎

新選組二番隊長土方歳三の半生を描いた物語である。
武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市)の豪農の子・土方歳三は若い頃から喧嘩に明け暮れ、「バラガキ」と呼ばれていた。歳三は実家秘伝の骨折や捻挫や打撲に効果があるといわれた「石田散薬」を売り歩いていた。体格がよく眉目秀麗であるから女にもてたが、貴種好みであった。歳三は洒落者であり、豊玉宗匠という俳号で俳句を作っていた。剣はあちこちの道場で学び、最後は近藤勇の天然理心流を学んだ。
のちに京都でまみえることになる七里剣之介(著者の創作の剣士)との果たし合いが行われたが、決着はついていなかった。
近藤は江戸に道場を開いたが、ハシカとコレラが流行り、道場は閑古鳥が鳴いた。このままでは食っていけない。そこで近藤たちは幕府肝煎りの浪士組設立の話に賭けた。役目は近々京に上る将軍家茂の警護であった。
京に上がるに際し、歳三は刀を手に入れた。五両で買った錆びた刀であるが、これを研ぐと紛れもない和泉守兼定であった。
12ac887676194858b462588030cd8747 燃えよ剣 上
司馬遼太郎
新潮文庫
1972年 576頁

文久3年(1863年)2月、歳三は近藤勇・沖田総士らとともに、壬生宿所に入った。京は殺傷沙汰が横行し騒乱状態にあった。
幕府は庄内藩郷士・清河八郎の提案を受け入れ浪士による護衛部隊浪士組を組織した。壬生浪と呼ばれる薄汚い格好をした集団だった。
ところが清河は尊王攘夷を説き、いつのまにか徳川将軍を護衛するという役目からすり替えられていた。

近藤と土方は、清河を箍が外れると狂犬のようになって暴れる芹沢鴨に始末をつけさせるように計った。芹沢鴨の兄が水戸藩の藩士で京都における公用方を務めていた。近藤と土方は芹沢兄に京都守護職会津中将松平容保にわたりをつけて、清河八郎を殺戮していいという蜜旨を得た。
新選組は芹沢兄頼りだから、近藤たちは水戸天狗党の芹沢鴨を新選組の長に担ぎ上げるしかなかった。芹沢兄を使って会津藩に掛け合い、京都守護職拝命と公儀から5万石が与えられ、京都駐在の費用は潤沢すぎるほどになった。

新選組は、京都・大坂の道場に触れ回り100名の隊士を集めた。近藤と芹沢と芹沢派の新見錦が局長となった。そして副長に、歳三と山南敬助がついた。組の旗を作り羽織袴も作った。そして京に潜む不逞浪士を斬った。大坂や奈良にまで足を伸ばした。
歳三は富にも出世にも関心がない。歳三の目標は新選組を幕府を守る最強集団として育てることにあった。郷里で「バラガキ」と呼ばれた頃と変わらない。歳三は喧嘩があって国事がない、と山南敬助が言ったという。著者の司馬遼太郎は歳三を「喧嘩師」と書いた。

芹沢鴨の祇園における度重なる狼藉により、町人はおろか諸藩の公用方も祇園に近づかなくなったという。京都では祇園と本願寺と知恩院のどれかに憎まれれば役職から失脚するという。芹沢は祇園で芸者たちと同衾しているところを襲われ粛清された。

1864年(元治元年)7月 8日に、長州藩・土佐藩を中心とした過激派が池田屋に集まった。新選組はそれを襲撃した。過激派の目論見は、烈風に乗じて京の各所に火を放ち、御所に乱入し天子を奪って長州に動座し、もし余力あらば京都守護職を襲って松平容保を惨殺するという過激なものだった。
池田屋の周辺には、会津、彦根、松山、加賀、所司代の兵3千人近くが取り囲んでいた。
池田屋事件は最初に池田屋に踏み込んだ新選組の功績となった。

しかし、長州藩の不穏な動きは収まらない。1864年(元治元年)8月20日、京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指し挙兵した。京都市街で市街戦を繰り広げた(蛤御門の変、禁門の変)。長州藩は敗れたが、そこに参戦できなかった新選組は武運がなかったといえる。蛤御門の変の後、新選組の隊員は60名に減った。

伊東甲子太郎(かしたろう)は北辰一刀流を収める水戸出身の人物。門弟100名ともに、新撰組に入隊したいという。歳三は気に入らない。近藤はいいところは利用できると乗り気だった。伊東甲子太郎は新選組を、勤王(天子のために忠義を尽くすこと。 特に、江戸末期、徳川幕府を倒し、天皇親政を実現しようとした思潮)に変えるという考えを持っていた。新選組を乗っ取ろうという考えである。

伊東甲子太郎は6名とともに京に向かった。 
江戸で隊士を募集し、伊東らが加わったことで新選組は変わった。伊東は武道も学問にも長けた人物のようだった。それに比べ近藤は大名気取りで浮ついていた。
山南敬助が置き手紙を残して脱走した。天狗党に対する幕府の処遇と新選組に絶望したと理由だった。沖田総士が馬で山南に追いつき、屯所に連れ戻どし、掟通り切腹となった。

歳三の考えは、新選組は政治結社ではない、幕府最大の軍事組織になるという考えであった。歳三は尊王攘夷を唱える隊員を片っ端から切腹させた。

この頃、会津藩と友好関係にあった薩摩藩は、1866年(慶応2年)3月7日、土州坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んでいた。同じ尊王攘夷でも、会津藩は幕権を強化した上での尊皇攘夷である。伊東の考える尊王攘夷は討幕しての攘夷だ。→人気ブログランキング
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燃えよ剣 上 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年
燃えよ剣 下 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年

2022年1月27日 (木)

マーチ家の父親 もうひとつの若草物語 ジェラルディン・ブルックス

南北戦争の真っ只中、四姉妹と母親を描いた不朽の名作『若草物語』(ルイザ・メイ・オルコット著)の、姿を見せない父親を主人公にするという大胆な発想で描いた歴史小説である。父親のロバート・マーチは妻と四人の娘を残して、およそ1年間従軍牧師として北軍に同行した。
過去と現在を行ったり来たりしながら、物語は進んでいく。

著者のジェラルディン・ブルックスはオーストラリア生まれ。シドニー大学卒業後、シドニー・モーニング・ヘラルド紙で環境問題などを担当していた。その後、コロンビア大学に留学し、並行してウォールストリート・ジャーナルで、ボスニア、ソマリア、中東地域の特派員として活躍した。
2001年に、17世紀の英国を舞台にしたYear of Wondersでデビュー。
2006年に、本書でフィクション部門のピューリッツァー賞を受賞した。
3作目の小説『古書の来歴』もベストセラーとなった。
4作目の『ケイレブ ハーバードのネイティブ・アメリカン』は、17世紀にハーバード大学に入学し卒業したインディアンの物語である。
41z9zwrvvl_sy291_bo1204203200_ql40_ml2_マーチ家の父親 もうひとつの若草物語 
ジェラルディン・ブルックス/高山真由美 
RHブックス+プラス 
2012年 451頁

従軍牧師のマーチはヴァージニアから妻のマーガレットに宛てて手紙を書いた。
その後、敵に襲われ川を渡りなんとか逃げおおせて、たどり着いた家には、以前、来たことがあった。そこはマーチが18歳の行商人だった頃に長逗留したオーガスタ・クレメントの屋敷であった。そこで再会したのは黒人奴隷のグレイスである。若き日、マーチは奴隷でありながら淑女のような言葉と立ち居振る舞いをするグレイスに心を奪われたのだった。働いても給料は支給されず、ルールに逆らえば鞭打ちの刑が待っている、ただそれだけの暮らし、それが奴隷の生活であった。マーチはそれを目の当たりにしたのだ。

マーチは行商で大金を手にし投資も順調で、マサチューセッツ州のコンコードに大きな家を買った。そして奴隷解放論者のマーガレットと出会い結婚したのだ。
ふたりは自宅に黒人が隠れることができる部屋を作ったり、「地下鉄道」(逃亡奴隷を支援する組織)に手を貸すなど、奴隷解放運動に積極的に加担した。

子どもたちが生まれる前のマーガレットを熱心な奴隷廃止論者だとするなら、子どもたちが産まれた後の彼女はまるで火がついたかのような廃止論者になった。マーガレットは激情の持ち主なのだ。
そのマーガレットが、金持ちの叔母が反対するにも関わらず、急進的な奴隷解放の推進者ブラウンに入れ上げ、家を手放すことになった。ブラウンは奴隷を助けるためではなく暴動を起こすために武器を購入していた。マーガレットはそのブラウンに資金提供したのだ。
破産が宣告されたのは、マーガレットが4人目の子どもを妊娠しているときだった。

そんな困難のなか、コンコードの兵士たちを見送る式典でマーチは切り株の上に立ち、演説を促された。演説は素晴らしいもので、大喝采を浴びた。「私も従軍する」と言ったのだ。叔母はマーチの歳で従軍するとは無分別だ。虚栄心の強い愚か者、南部で野垂れ死して家族を貧乏に陥れるのがオチだと罵られた。
四姉妹とマーガレットとは貧乏ながらも健気に生きるのだが、マーチは瀕死の状態になり、マーガレットが病院に呼び寄せられることになった。そこでマーガレットは屈辱を味わうことになるのだった。→人気ブログランキング
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【ジュラルディン・ブルックスの作品】
ケイレブ  ハーバードのネイティブ・アメリカン』柴田ひさ子/平凡社/2018年
古書の来歴』森嶋マリ/武田ランダムハウスジャパン/2010年
マーチ家の父 もうひとつの若草物語』高山真由美/RHブックス・プラス/2012年

2021年7月27日 (火)

バサラ将軍 安部龍太郎

南北朝の争いによって朝廷の権威が失墜した南北朝時代は、人々が己の力だけを頼りに生き始めようとした時代である。その象徴的な言葉がバサラ(婆娑羅)だ。バサラとは梵語で金剛石のこと。この時代に、バサラは神を恐れぬ勝手放題、贅沢三昧な振る舞いを指す言葉になっていた。その典型的な人物が足利尊氏の配下の高師直や佐々木道誉である。
本書には、南北朝の不安定な時代を背景に描かれた、視点の異なる珠玉の短編6編が収録されている。
Photo_20210727142901バサラ将軍
安部龍太郎 
文春文庫 
1998年

「兄の横顔」
尊氏は心のままに振る舞い、実務はからっきしだめで、もっぱら弟の直義が実務にあたったといわれている。
直義は隠岐から戻った後醍醐天皇の寵姫阿野廉子に大塔宮(護良新王)が、皇位を奪う野心があると吹き込んだ。尊氏は六波羅に残り、直義は大塔宮を奉じ関東武士を統率するために、執権として鎌倉に入った。大塔宮の動きが不穏である。父・後醍醐天皇によって大塔宮は鎌倉に幽閉され、直義は大塔宮を土牢に入れた。
信州から北条の残党が鎌倉に攻め上がってきた。数で及ばない直義は尊氏に援軍を要請したが間に合わず、直義は大塔宮を殺害して鎌倉から逃れた。直義が尊氏と合流したのは、三河であった。直義は尊氏に大塔宮を殺害したことを告げた。これで足利一族は朝敵となったのだ。尊氏が全ての責任を直義に取らせるために、大塔宮を鎌倉に下したのではないかと疑った。

「師直の恋」
高師直は、公家の牛車に嫌がらせをしている佐々木道誉の家来を叩き斬り一喝した。その牛車には妙齢の女性が乗っていた。十指に余る側室を抱えた38歳の師直はその女性に一目惚れをした。師直の妻は父から強引に押し付けられた女だった。
後醍醐天皇に仕えていた侍従の話から、師直が恋する女性は葵といい、30歳ばかり歳上の塩冶判官高貞の妻だとわかった。占部兼好に恋文を代筆してもらうことになった。葵はその手紙を半分読んで捨てたという。
侍従が、3人の子持ちの化粧を落とした面相を一度まともの見た方がいいという。そして師直は湯から上がった葵の姿を目にした。

「狼藉なり」
高師直の盟友土岐頼遠が酔って上皇に狼藉をはたらいた。重臣たちが評定を行ない死罪と結論を出した。切腹ではなく斬首である。師直は頼遠に結果を告げると、頼遠は受け入れるという。師直はどうにかするから美濃に逃れていろという。南朝派が兵を蓄えているが師直は放っておいた。いずれ合戦で武勲をあげてきた頼遠の力が必要になると踏んでいた。しかし、頼遠は大殿(足利尊氏)に判断を仰いだ。

「知謀の淵」
新田義興は南朝の後醍醐天皇側についた。竹沢右京亮は畠山国清から新田義興にとり入り騙し討ちにせよと命じられたのだ。足利側で生きるためにはこの機会を逃してはならない。恩賞は望みどおりにとらすという。
竹沢右京亮は、義興の乗った舟に水が入るよう細工を加え義興を討ち取った。勝利の宴で重鎮たちは右京亮を揶揄うような言動をした。かつての主人新田義興を騙し討ちにした自分を快く思わない者がいる。右京之介は卑怯者と罵られ馬鹿にされ、それは止まるところを知らなかった。卑怯者はいつまでたっても卑怯者だった。

「バサラ大名」
後円融帝と足利義満は同じ27歳、従兄弟の関係にある。義満は帝の寵愛深い三条の局をなんとかものにしたいと思っている。日野資康に何とかならないかと持ちかけた。資康はバサラな望みだという。義満の祖父尊氏が北朝を擁立した。幕府の武力無くしては一日たりとも立ち行かない。その弱みに漬け込んでの横暴である。義満は帝の座を狙おうとすらしている。後円融帝は、三条の局の息子6歳の幹仁親王を幼帝にしたて上皇として政治を操ろうとする。三条の局は義満を招いて息子を幼帝にすることを交換条件とした。義満は興醒めし、三条の局を無視することになる。
義満の叔母である崇賢門院が、義満の一連の狼藉を叱責した。あなたが力を失えばあなたに従う者はいなくなるが、帝は徳をもって民の上に立たれている。徳のある者であり続けようと努力することができる。帝が背負っているのはそういう宿命なのだ。帝に誓書を書けという。義満はそれに従った。

「アーリアが来た」
5日前小浜湾に南蛮船が着いた。象が乗っているという。5人の手下を持つ馬借の源太に、若狭屋から象を京に連れていく手配をしろと声がかかった。源太は若狭屋の荷の5分の1を扱えるようにと条件を出した。
幕府には南蛮人が来るのを喜ばぬ勢力がいるという。義満は天皇の座につくつもりだったが、突然死んだ。義嗣と義持が跡目を争い義持が勝ち将軍の座についた。義持は小浜で明との貿易を行おうとしていたが、この計画が義嗣派に漏れたのだ。
黄竹青という少女が象のアーリアの背に乗って操っている。敵は竹青を遠矢で射殺しようとするだろう。そして道中、一行が襲われる。→ にほんブログ村

平城京/安部龍太郎/角川文庫/2021年
信長の革命と光秀の正義 真説本能寺/安部龍太郎/幻冬社新書/2020年
姫神/安部龍太郎/文春文庫/2018年
等伯/安部 龍太郎/文春文庫/2015年
バサラ将軍/安部龍太郎/文春文庫/1998年
婆娑羅/山田風太郎/講談社文庫/1993年

2021年7月 6日 (火)

姫神 安部龍太郎 

推古天皇の御世。遣隋使を派遣する目的は、厩戸皇子が望む朝鮮半島三国と倭国の和平だった。遣隋使の水先案内と護衛の役を仰せつかったのは、宗像水軍。
遣隋使派遣に至るまでの1年間を、宗像水軍に関わる人々を中心に描く。
Photo_20210706141301姫神
安部龍太郎
文春文庫
2018年 269頁

607年8月、宗像水軍をひきいる宗像君疾風(むなかたのきみはやて)は、遣隋使として派遣された小野妹子ら一行を渡海させる任務を厩戸皇子から仰せつかり、隋の都洛陽に向かっている。
今回の遣隋使団は朝鮮半島の三国(高句麗、新羅、百済)と倭国で組織し、四カ国が隋皇帝の冊封下に入る(属国となる)ことで相互の争いを防ぐことを目的としている。厩戸皇子の呼びかけに応じ、高句麗と新羅は使者と皇帝への貢物を送ることにしたが、百済は新羅に奪われた土地を取り戻すまでは、いかなる和平にも応じないと、使者は送らず、貢物だけを送った。かくして、4国の足並みはそろわず、それぞれの国内に和平に反対する勢力が、遣隋使の派遣を阻止しようとする。

遣隋使渡海の前年、606年の初夏、宗像の海は荒れて避難が遅れた船・三艘が海にさらわれた。村長は、伽耶に大島の遥拝宮に参籠して沖ノ島の田心姫神に、波風がしずまるように祈るように頼んだ。祈りが通じたのか嵐はおさまった。
主人公の伽耶は韓子(からこ)である。韓子とは任那に住んでいた倭人と百済人や新羅人との間に生まれた子供のことである。伽耶の母親は宗像一族の長の娘で、南加羅の新羅人の豪商に嫁いだ。伽耶は5歳まで幸せに暮らしていたが、新羅が突然任那に攻め込んできたため命からがら脱出した。両親の消息は定かでない。今は巫女の修行をしている。

大島の海岸に朝鮮人と思われる大怪我を負った若い男が漂着した。伽耶は男を助けるべく宗像に運び薬師に預けた。伽耶はなぜかその男に惹かれものを感じていた。外科処置が行われたが、創が治っていないにも関わらずその男・円照は姿を消した。新羅からの諜報ではないかと疑われた。

大和からの使者が逗留している屋敷を何者かが襲った。屋敷にいた円照は無事だった。使者は宗像水軍に隋への渡航の案内を依頼しにやって来たのだ。厩戸皇子の計画に反対する者の仕業であろう。円照は厩戸皇子と和平の道を探るため倭国に向かったが、途中で何者かに襲われ傷を負って大島に流れ着いたのだった。円照は新羅の真平王の弟である。

大和では二つの勢力が駆け引きをしていた。百済と手を組んで新羅から任那日本府を奪還しようと目論む、蘇我馬子・蝦夷親子。一方、厩戸皇子は朝鮮半島と倭国の和平を望んでいた。

朝鮮半島にたどり着く前に、遣隋使を護衛する宗方水軍は、蘇我馬子と通じている糸島水軍と戦わなければならない。宗方水軍に伽耶も同行することになったのだが、遣隋使の行く手は前途多難である。
ちなみに、沖ノ島には、本作で円照が伽耶に贈ったとされる金製の指輪が伝えられている。→人気ブログランキング

平城京/安部龍太郎/角川文庫/2021年
信長の革命と光秀の正義 真説本能寺/安部龍太郎/幻冬社新書/2020年
姫神/安部龍太郎/文春文庫/2018年
等伯/安部 龍太郎/文春文庫/2015年
バサラ将軍/安部龍太郎/文春文庫/1998年

2021年6月 1日 (火)

歴史・時代小説縦横無尽の読みくらべガイド 皆川博子

本書で紹介している作家は176名、取り上げている小説は488作。すごい数だ。
本書は【時代劇は楽しい!】【こんなテーマで読み比べてみた】【幕末・明治を読む】【今とつながる物語】【この作家はこれを読め!】の五部からなる。
0fe6a53645174ca2afdb491c8d867432歴史・時代小説縦横無尽の読みくらべガイド
皆川博子
文春文庫
2017年

第1部から第4部までは、ダジャレ仕立てのタイトルが目立つ。
たとえば、「シャモナベイビー!」の項で取り上げるのは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』と司馬遼太郎の『龍馬がいく』。『鬼平犯科帳』には五鉄の「軍鶏鍋」が何回も出てくるという。『龍馬がいく』では風邪をひいた龍馬が、峰吉少年に軍鶏肉を買いに行かせる。ところが峰吉は「鳥新」という店で30分も待たされる。話は進んで龍馬の暗殺に至ってしまう。そこで著者が話題にするのは書かれていない軍鶏のゆくへ。暗殺はおいておいて軍鶏がどうなったかを推理している。

話は広がる。池波正太郎は詳しい調理法を書かないという。そこで、池波作品に登場する料理を解説したり再現したりする本が登場する。『池波正太郎 鬼平料理帳』(佐藤隆介)を紹介したあと、料理時代小説の代表格である高田都の『みをつくし料理帖』をとり上げる。
ダジャレがちゃんと機能しているのがいい。ダジャレは本文中にもちりばめられている。著者は気の利いたダジャレを飛ばすが、流行り言葉にも敏感な万能型だ。

【幕末・明治を読む】の「豆は夜更け過ぎに餅へと変わるだろう〜旧暦新暦大混乱」や「時の名前に身をまかせ〜暮れ六つって何時?」の項は、太陽暦導入に伴う混乱を描いた作品を挙げている。明治初期ならではテーマだ。
西洋定時を受け入れがたい人にとっては、「一日が明け六つの鐘で始まり、暮れ六つの鐘で終わることに、いったいなんの不都合があるのだろうか。夏の一日が長く、冬の一日が短いのは道理であろう」(『五郎治殿御始末』浅田次郎)という心境なのだ。

【この作家はこれを読め!】の章では、「巨匠を読む」には、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平を取り上げている。「名手の世界を味わう」では、山本兼一、葉室麟、北原亞以子、宮部みゆき、平岩弓枝、宇江佐真理、杉本章子を紹介している。さらに、「今を代表する実力派たち①男性作家編」「今を代表する実力派たち②女性作家編」、「読み逃すな!注目の新進作家」「現代小説からの参入」、さらに「文庫書き下ろし時代小説①武家・剣豪編」「文庫書き下ろし時代小説②市井・伝奇編」という具合に、第五部だけでも、蟻一匹も逃さぬような網羅ぶりだ。まさに縦横無尽だ。

ところで、飛鳥時代、奈良時代の作品の紹介が手薄なのは、元々この時代の作品が少ないからだろう。本書をめくっているとつい小説を買いたくなる。本書が優秀な時代小説解説本である証拠だ。→人気ブログランキング

2021年5月26日 (水)

平城京 安部龍太郎

文武天皇が25歳の若さで亡くなり、天皇の母君である元明天皇の御世(707年〜715年)が始まった。
遣唐使の船長であった主人公の阿倍船人(ふなびと)は、唐から帰国の際、船の故障と偽って港に戻り、3年後に白村江の戦いで捕虜となった人々を乗せて帰ってきた。この行為が命令に反いたとされ、謹慎処分になっていた。
Photo_20210526140901平城京
安部龍太郎
角川文庫
2021年

船人を兄の阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)が訪ねてきて、唐の長安を模した平城京を奈良山の麓に造ることになったから、手伝って欲しいという。2年で都を造る現場の責任者になれという。権力者である藤原不比等の命令である。阿倍家にとっては白村江の戦いの汚名を挽回するチャンスだ。父の阿倍比羅夫は新羅征討軍の後将軍として闘った。

奈良の盆地を地ならしして大路小路を造らなければならない。それを1年で仕上げるためには、1日1万人の役夫が必要である。まずは役夫たちの宿舎の屋根をふく葦を難波潟で集める。船人が白村江の戦いの捕虜を助けたことは尊い行為として人々は受け止めていた。船人に協力しようと総勢四百人が集まった。

しかし問題は山ほどある。まずは平城京予定地にある古墳の移動である。豪族たちの立退きの説得を舩人がやらねばならない。さらに、冤罪によって滅ぼされ都を追われたと信じている葛城一族の立退き、もうひとつは土木工事のノウハウと膨大な労働力が期待される行基率いる宗徒が大宝律令の僧尼令により都に入れないことである。
さらに、海からの資材運びには百済の泊を利用するが、百済の泊には白村江の戦いで亡命してきた百済の民が住んでいる。白村江の戦いで百済が敗れたとき、天智天皇が多くの亡命百済人を引き受けてた。百済の泊の人々は天智天皇派のためなら労を厭わないのだ。阿倍船人はこうした難題を一つ一つ解決してゆく。

正体の知れない勢力が遷都を邪魔する。根底には天智天皇派と天武天皇派の確執がある。天智天皇派は、唐とは距離を置く方針をとる壬申の乱で敗れた一派だ。天武朝廷の流れを覆して天智天皇の系統に戻そうと心に誓っている人たちだ。一方、天武天皇派は、日本が唐の冊封国(同盟的な隷属国)となることで、白村江の戦い以来悪化している両国の関係を正常化しようと考えている。そのために行わなければないことは、大宝律令を制定し、史書の編纂を行い、都となる王城を建設することである。
船人は奈良への天皇行幸の裏警護を任されることなった。そして行幸の日、事件は起こる。

大化の改新(645年)、白村江の戦い(663年)の倭軍の惨敗、壬申の乱(672年)の後、平城京建設を描く歴史小説であり、事件の黒幕は誰かという謎を解くミステリでもある。→人気ブログランキング

平城京/安部龍太郎/角川文庫/2021年
信長の革命と光秀の正義 真説本能寺/安部龍太郎/幻冬社新書/2020年
姫神/安部龍太郎/文春文庫/2018年
等伯/安部 龍太郎/文春文庫/2015年
バサラ将軍/安部龍太郎/文春文庫/1998年

2021年4月10日 (土)

婆沙羅 山田風太郎

婆沙羅大名と呼ばれた佐々木道誉が主人公である。
婆沙羅とは、仏語で物狂いに近いほど綺羅を飾った服装や風俗を指し、見栄を張り遠慮なく振舞うこと。
鎌倉幕府の打倒に失敗して隠岐島へ御流された後醍醐天皇は京に戻り、足利尊氏擁する光明天皇に対抗して吉野の地に南朝をたて、南北朝時代が始まった
足利尊氏を補佐するのは尊氏の弟・足利直義である。直義が尊氏に仕える悪辣な高ノ師直、師泰兄弟を討つと、道誉は直義を殺害した。尊氏が亡くなると、道誉は尊氏の息子・尊詮の寵臣となった。乱世だからこそ上手く立ち回わることで道誉の存在価値がある。
5469a3df58c04807a8d6c59e3d88357b婆沙羅
山田風太郎
講談社文庫
1993年

朝廷の監視機関である六波羅探題襲撃の計画が発覚し、後醍醐天皇は隠岐島に御流されることになった。牢内の天皇は常人の3倍の食欲があり要求が通らないと断食を始める。餓死させるわけにいかないから要求通りになる。21人の妾から隠岐島に連れていく側妾3人を真言密教の大秘法で選びたいという。牢番の検非違使である佐々木信誉は許可した。邪教立川流にのっとった大秘法は、淫卑極まりないものであった。

道誉は後醍醐天皇の御流の旅に1500人の警護をつけた。道誉は天皇はいずれ京に戻ってくると予測したが、道誉の予想通り後醍醐天皇は翌年6月に隠岐から戻ってきて、「建武の新政」が始まった。そして世は乱れに乱れた。

道誉は後醍醐天皇寄りの立場と見せておいて、鎌倉幕府を倒した功労者である楠木正成に「帝とは距離をおいた方がいいのでは」と助言した。正成は「帝が天魔鬼神でおわすとも必ずお守りして死ぬるものと覚悟している」と答えた。

尊氏は、人に対して憎悪の念を持たない、物を惜しむところがない、小事に拘らない性格である。動揺の震源地は反勢力の南朝にあるが、その存在をあたかも認めているのが尊氏である。弟の足利直義は優柔不断な兄を補う分、冷徹な合理主義者である。

尊氏に仕える高ノ師直、師泰兄弟は強欲で好色であり悪辣であった。ふたりは、次第に主を主とも思わぬようになった。足利氏の内紛である観応の擾乱で、尊氏は高兄弟を庇ったが、直義は高兄弟は許せないとふたりを惨殺した。その背後には道誉がいた。
道誉は乱世であればあるほど自分のやりたい放題がやれると思っていた。

尊氏が息子の尊詮に政務に与えた職を直義に返さなかったことで、直義は尊氏に叛旗をあげた。
道誉は寺に幽閉されていた直義を毒殺すると尊氏に持ちかけそれを実行した。
尊氏は直義の死後、悪夢を見ることが多くなった。
そして尊氏が背中の化膿が悪化して亡くなると、道誉は尊詮の寵臣となった。そのとき道誉は53歳であった。
婆沙羅大名佐々木道誉を通して百鬼横行の乱世・南北朝時代を描いた傑作。→人気ブログランキング

妖説忠臣蔵/集英社文庫/2014年
忍法忠臣蔵/角川文庫/2014年
伊賀忍法帖/講談社文庫/1999年
くノ一忍法帖/講談社文庫/1999年
甲賀忍法帖/講談社文庫/1998年
明治バベルの塔(山田風太郎 明治小説全集12)/ちくま文庫/1997年
ラスプーチンが来た/文藝春秋/1984年
明治断頭台/文春文庫/2012年
婆沙羅/講談社文庫/1993年

2020年5月 9日 (土)

華岡青洲の妻 有吉佐和子

本書は、1804年(文化元年)、世界に先駆けて乳癌の切除術を成功させた華岡青洲と、その偉業を影で支えた妻と青洲の母親を描いている。封建社会の家制度のなかで繰り広げられる嫁姑の静かで壮絶な闘いを、切れ味の鋭い文章で描いた著者の渾身の傑作である。
1966年に発表された本作品は第6回女流文学賞を受賞した。この作品により、医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に知られるようになったという。

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華岡青洲の妻

有吉佐和子
新潮文庫
1970年 ✳10

 

青洲の母親・於継(おつぎ)の話からはじまる。
於継の実家は地主で、於継は幼いころから才色兼備の誉が高く、一帯で評判の娘だった。皮膚病にかかりどの医者も匙を投げた。華岡直道が必ず治してみせるから、その暁には於継を娶らせて欲しいと言った。こうして於継は貧乏医者の家に嫁入りすることになった。於継が嫁いでから華岡家の格が上がったと囁かれた。

青洲の妻になる加恵の実家は、大名の宿である本陣を営む格式の高い武家の家柄であった。祖父が亡くなったとき、加恵は18歳になっていた。葬儀に参列した於継は、7人も子供を産んで40も超えたというのに、10歳は若く見え気品をたたえていた。

それから3年後、於継が加恵を息子の嫁にいただきたいと言ってきたのである。父親は身分が違うと暗に断ったが、於継に憧れを抱いていた加恵は乗り気であった。
そして、加恵は華岡家に嫁いだ。花婿の青洲は京都に出て半年になる。以後3年間、華岡家は切り詰めるだけ切り詰めて青洲の仕送りにあてた。於継と加恵は親子のようにうまくいっていた。

ところが、青洲が帰ってくると状況は一変した。望まれた嫁と望んだ姑の綺麗ごとの間柄は、青洲の出現によって終わったのだ。それは、少しでも青洲に気に入られようとふたりが競ったことで生じた。

青洲は全身麻酔をかけて乳癌を切ると言って憚らなかった。於継は「昔から雲平(青洲の幼名)さんはできないことをいう人ではなかった、いう通りになる」と言った。

青洲は乳癌の手術のために麻酔薬を開発しようと、多数の犬や猫を飼って実験を行った。実験を始めてから10年の歳月が経って、ようやく麻酔薬の完成の最終段階に入った。
嫁姑は実験台になることで天下晴れての喧嘩ができるのであった。ふたりに対して2回ずつ実験が行われ、実験は何とか成功したが、加恵は目を患いやがて盲目となった。
そのころ、青洲はすでに紀州に並ぶもののない帯刀を許される医者になっていた。

乳房は女の命に繋がっているから、乳房は手術ができないと言われていた。そこに牛の角に突かれ左の乳房が石榴のように割れた百姓女が運ばれてきた。縫い合わせて無事に治った。迷信だったのだ。そしてすべての準備を整え、世界初の乳癌の摘出術が行なわれた。→人気ブログランキング

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉/吉村 昭/新潮文庫/1993年
花埋み(はなうずみ)/渡辺 淳一/新潮文庫/1975年(医師国家試験に合格した女医第1号・荻野ぎんの物語)
華岡青洲の妻/有吉佐和子/新潮文庫/1970年

2020年3月25日 (水)

光秀 歴史小説傑作選 細谷正充 編

2020年のNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の主要人物が明智光秀になったことで、光秀ブームが来ている。本書は光秀関連の6編のアンソロジーである。
光秀には幾つかの謎がある。出生から成人するまでどこにいて何をしていたははっきりしておらず遅咲きであること、なぜ信長を討たなければならなかったのか、黒幕はいなかったのか、最期は武者狩りで殺されたことになっているが、生き延びたという説もある。
そんな小説のネタとしてもってこいの謎をもつ光秀である。
最近は安土城跡の発掘や古文書の解明が進み、少しずつ光秀像が解明されていているという。
__20200325141201光秀 歴史小説傑作選

細谷正充 編
PHP文芸文庫
2019年 ✳︎10

冲方丁は、信長に抜擢された光秀があくまで天下を取ろうと野心を抱いた視点から書いた。「純白き鬼札」
池波正太郎は、余裕を感じさせる文章で光秀をすらすらと書いて、最後に、光秀の母の逸話には確証がないとする。「一代の栄光ー明智光秀」
新田次郎は、その光秀の母の逸話を見事な短編に仕立てている。「明智光秀の母」
凄腕の忍者・十兵衛秀光を登場させたのは山田風太郎だ。「忍者明智十兵衛」
植松三十里は、光秀の美貌の三女、嫉妬深い細川義興に嫁いだガラシャと切支丹の関係を描いた。さすが光秀の娘といわれるに値する生き様だ。「ガラシャ 謀反人の娘」
山岡荘八は、刀の鞘作りの名人・曽呂利新左衛門の相手に死んでいない光秀を登場させる。「生きていた光秀」→人気ブログランキング

光秀 歴史小説傑作選/細谷正充 編/PHP文芸文庫/2019年
光秀の定理/垣根涼介/角川文庫/2016年

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