直木賞候補

『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』 大島真寿美

浄瑠璃の世界を、関西弁が馴染む独特のリズムの文体で、小気味よく描いた傑作。第161回(2019年上半期)直木賞受賞作。

主人公の近松半二(1725~1783年)は近松門左衛門と血の繋がりはない。半二の学者である父親・穂積以貫は、門佐衛門にぞっこんの浄瑠璃狂いだった
門佐衛門が亡くなったあと、以貫は幼い成章(半二)を連れて小屋通いをしていたものだから、成章は浄瑠璃にしか興味を持たなくなり勉学がおろそかになった。
そんな成章に、鬼のように厳しい母親の絹は、叱るを通り越して怒鳴り散らすし手も出した。


【第161回 直木賞受賞作】 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び
渦 妹背山婦女庭訓 魂結び
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大島 真寿美
文藝春秋 2019年3月 ✳10
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京から戻った半二は、竹本座の作者部屋に出入りし、意見を聞かれるようになる。人形遣いの頑固爺い・吉田文三郎が半二に、門左衛門の硯を持っているんなら、書かなきゃどうすると迫った。ところがその書いた物の出来ときたら惨憺たるものだった。

お末は兄の許嫁だったが、絹に強引に引き裂かれた。お末が嫁いだ京の酒屋を訪ねたあと、半二は俄然浄瑠璃に燃えてきた。役行者大峯桜(えんのぎょうじゃおおみねさくら)で、半二は浄瑠璃作家として世に出る。

道頓堀で客を呼べる人形遣いは吉田文三郎が当代一だ。文三郎の難儀な性格が周囲との軋轢を生んだ。文三郎は半二に竹本座を割って出るからついて来いと誘う。この話は座本によって阻止され、文三郎が追放されることになった。人形を取り上げられた文三郎はすぐに亡くなった。

歌舞伎の立作家・治蔵は、深淵を覗いてしまった。真っ黒な深淵がある日、蓋を開けるのである。その深淵はみてはならぬもの。深淵には獰猛な生き物がいる。目が合えばなにかしら差し出さなければならない。治蔵はそれから抜けださえなくなって酒に溺れたのだ。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉を彷彿とさせる話だ。

半二の渾身の出来となったった妹背山婦人庭訓は、大化改新を舞台としたファンタジーアクション物。蘇我入鹿が大悪党で、お末をモデルにした三輪山のふもとの杉酒屋の娘お三輪を、主人公のひとりに据えた。半二の頭の中で、お三輪は婦女庭訓に対する女の不満を語る。

妹背山婦女庭訓の大当たりからから2年経つと、客はまた浄瑠璃から歌舞伎芝居に戻ってしまった。歌舞伎は人気役者が百花繚乱。その一方で、操歌舞伎では食っていくのがだんだん難しくなり、座を離れる者は後を絶たなかった。

近松門左衛門も吉田文三郎も、並木正三も半二も治蔵もみんな溶けて渦になって、拵(こしらえ)る。お互いがそれぞれの作品を、オマージュしたりトリビュートしたりして、でき上がる作品は渦を巻いてドロドロになっていく。道頓堀の渦の中から浄瑠璃や歌舞伎が生まれてきたというのがタイトルの意味するところだ。

『落花』澤田瞳子

平将門の生き様を、梵唄(ぼんばい)という経の詠み法を極めようとする僧・寛朝の目を通して描く。奈良・平安期の歴史小説の第一人者である著者が、将門を動、寛朝を静の対比で描き上げる。第161回直木賞(2019年7月)候補作。

「平将門の乱」とは、常陸国の平氏一族の抗争から、関東諸国を巻き込む争いへと広がり、将門軍が国府を襲撃し、朝廷に対抗して「新皇」を自称したことにより朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀頼、平貞盛によって討伐される。
本作では、勝利の宴で惚け者が「新皇に相応しい」と叫んだことで、望んだわけでない将門が「新皇」に祭り上げられてしまう。

落花
落花
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澤田 瞳子
中央公論新社 2019年3月 ✳︎9
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寛朝は父親に疎まれ幼くして仁和寺に預けられた。寛朝の父親・敦実親王は醍醐天皇の同母弟であり、当代一の楽者としてその名を轟かせていた。楽の道では到底父に追いつくことができない寛朝は、経の読誦法である梵唄に活路を見出そうとした。

そして、常盤国の豊原是緒から教えを受けるために、東国に旅立った。下人の千歳は是緒が所持している有明という琵琶の名器を手に入れて、卑賤の身から抜け出そうという企みで従者になった。有明は天下十逸物のひとつとされる。

寛朝一行を迎い入れた武蔵権守・興世王の屋敷に盗賊が押し入って強奪を始めたとき、将門が現れると、盗賊たちは奪った反物を返しはじめた。
将門は伯父との私闘を咎められ京の検非違使庁に出頭して、坂東に戻ってきたところだという。
平将門が面倒を見ている少女のうそは、寛朝の梵唄に聞き惚れて、寛朝が将門の館に来てくれるよう頼むのだった。うその母親と将門は幼馴染、留守中に伯父が営所に火を放ち、うその母親は火傷で亡くなった。
寛朝は将門と己との対比することで、将門の人となりに敬意と憧憬を抱くのだった。

常盤国分寺の僧・心慶に名を変えた豊原是緒は、船で生活し春をひさぐ傀儡女に楽の手ほどきをしている。将門の妹と触れまわる如意と、盲目のあこやたちは心慶に最大限の敬意を払っている。卑しいあこやに有明を授けたという現実に、千歳は衝撃を受ける。有明を手に入れようとなりふり構わない策を弄するのだった。

営所の経営で財をなして領土を富ませる将門と、国府に出仕して勤務する従兄の平貞盛は、いつ戦ってもおかしくない水と油である。
堅物の常陸国司の菅原維幾にひと泡吹かせようと、藤原玄茂(はるもち)と玄明(はるあき)は企んでいる。
玄茂と玄明とあこやの傀儡女船で3日後会おうとしていると、千歳は菅原維幾に知らせた。菅原維幾が玄茂・玄明を襲い、どさくさに紛れて千歳はあこやの琵琶を奪おうと企んだのだ。
将門は玄明・玄茂の暴挙を許すようにとの書状を国府に送るが、国司の藤原維幾はこれを一蹴した。将門の義憤は激しい怒りに変じ、国府に攻め入った。国府に攻め入ったからには、将門は朝廷からすれば叛徒である。
そして、将門軍と藤原秀頼・平貞盛羅の軍の血で血を洗う壮絶な戦いが繰り広げられる。

月人壮士(つきひとおとこ)/中央公論新社/2019年
落花/中央公論新社/2019年
秋萩の散る/徳間書店/2016年
師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間書店/2015年
ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間文庫/2016年
京都はんなり暮らし/徳間文庫/2015年
与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記/光文社/2015年
若冲/文藝春秋/2015年
満つる月の如し 仏師・定朝/徳間文庫/2014年
泣くな道真 ―太宰府の詩―/集英社文庫/2014年

 

『平場の月』朝倉かすみ

青砥健将は郷里の町で印刷会社に勤めている。青砥には介護施設に入所している認知症の母親がいる。パートの同窓生の元女子たちと一緒に仕事をしている。元女子といっても50歳、青砥も同じ歳だ。人生にこの先、輝かしい進展があるとは思えない。
第161回(令和元年7月)直木賞候補作。

平場の月
平場の月
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朝倉かすみ
光文社 2018年 9✳
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青砥は胃がんの検診を受けに町の総合病院に行ったとき、売店の店員をしている須藤葉子に再会した。
中3のときに、青砥はどこかどっしり構えたところがある「太い」と感じていた須藤に告白してフラれた。
今回は、アドレスを交換しラインで連絡しあい、2日後に焼き鳥屋で会うことになった。

須藤と一緒に働いている同窓生のウミちゃんは明るくてお人好しで人は悪くないが、情報通だ。ウミちゃんによって、青砥と須藤の関係はラインを通じてまたたく間に拡散される。ウミちゃんのスピーカーぶりにしばしば辟易させられる。

青砥はアル中の一歩手前から帰還した話をした。須藤は若い美容師に入れあげて家まで失った波乱の人生を歩んでいた。お互いバツイチだ。

情熱的な恋とは違う、お互い孤独の中で慈しみあいながら関係を続けていく。しかし、すでに前半で明らかにされたふたりの結末に向かって物語は進んでいく。
巧みな筆致で綴られた悲恋譚である。

『美しき愚か者たちのタブロー』原田マハ

世界に通用する西洋美術館を日本に建てるという目的のために、奮闘した人たちの物語。タブローとは、移動可能なキャンバスなどに描いた絵画のことである。
第161回(2019年7月)直木賞候補作。

松方幸次郎は1866年、鹿児島に明治の元勲・松方正義の3男として生まれた。破天荒な性格で、東京帝大を退学処分になり、アメリカのラトガース大学に留学した。帰国後、松方は首相を務める父親の秘書をしたり、保険会社を経営したりしていたが、1896年に川崎財閥の創始者・川崎正蔵に見込まれて、川崎造船所の社長に就任し、第一次大戦の戦争特需で大儲けした。


美しき愚かものたちのタブロー

原田 マハ
文藝春秋
2019年5月 8✳

松方の美術収集アドバイザーになったのは日本を代表する美術史家の吉田修一である。松方の作品の買い方は、作品の良し悪しもさることながら、画家と親密になって、作品をすべて買い上げるという豪快なものだった。モネには直接に会って意気投合し、秘蔵の「睡蓮」を買取っている。

当初、印象派の画家たちは、批評家に「タブローのなんたるかを知らぬ愚か者たちの落書き」などと手厳しく揶揄された。20世紀に入ってからは前衛美術を積極的に収集するコレクターが現れた。皮肉なことに、フランス人が見向きもしなかった前衛美術に外国人の方が先に価値を見出した。アメリカのスタイン兄妹、バーンズ博士、ロシアの富豪シチューキンとモロゾフ、そして松方幸次郎である。
この時代の動きを冷静に捉え、松方に作品の購入を勧めたのが、田代修一であった。

日本が欧米諸国と比肩するためには、経済力、軍事力ばかりでなく、芸術の力が必要だと松方は直感した。美術館のひとつもなくてどうして先進国の仲間入りができるのか。松方が絵画を集めた理由は、欧米に負けない美術館を創り、そこに本物の絵を展示して、日本の画家たち、ひいては青少年の教育に役立てたいと願ったからだ。

田代修一はサンフランシスコ講和条約の際、条約局長として首相の吉田茂に同行した。吉田総理はサンフランシシコのホテルで、仏外相に会い天才的な外交力を発揮し、「松方コレクション」の返還を約束させた。フランスには絵画がたくさんある、「松方コレクション」があってもなくてもフランスは変わらない。日本はそうではないと説き伏せたという。

松方が戦前に集めた作品数は2000とも3000とも言われている。松方は昭和25年に亡くなるが、その翌年にサンフランシスコ平和条約が締結され、フランスに残されていた彼のコレクションが日本の在外財産と認められる。そして370点の作品を収めるために、上野に巨匠ル・コルビュジエの設計による国立西洋美術館が建てられた。